撃墜王エーリッヒ・ハルトマンの半生
レイモンド・F・トリヴァー/トレバー・J・コンスタブル共著 井上寿郎訳 学研M文庫
The Blond Knight of Germany
Raymond F.Toliver / Trever J.Constable
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学研M文庫「不屈の鉄十字エース」(The Blond Knight of Germany)の紹介です。
原著は1970年の発売。日本では『メッサーシュミットの星;ドイツ空軍の撃墜王」(志摩隆訳)というタイトルで1973年にリーダース・ダイジェスト社から発刊されました。私は当時中学生。日野市立図書館で借りて読んだため、本邦初訳は持っていません。恐らくは再販もかからず、その後10年以上経って、1986年に朝日ソノラマ文庫で「不屈の鉄十字エース」(井上寿郎訳)の題で復刊されました。この版は本棚にありますが、もう20年前の出版なので、このたび学研M文庫で復刻されたのは喜ばしい限りです。表紙は朝日ソノラマ版のまま、生頼範義氏。多分原本と同じ写真ページが復活したのは喜ばしい。恋人のウーシュ、ロスマン曹長、プンスキ伯爵、ツヴェルネマン、ヨアヒム。ビルクナー、盟友ビンメル、ラル、シュタインホフ、ビリ・バッツ、アッシ・ハーン、グラーフなど顔写真が一層の臨場感を添えてくれます。
さて再読しての感想文を少々。
1.ロスマン曹長
まずはパウル・ロスマン曹長が居なければ、エース・ハルトマンも存在しなかったこと。
ロスマンはベテラン下士官パイロットで、新人八ルトマンの教官役だったエクスペルテ。戦前の飛行で
体を痛めており、他のパイロットのような腕力を使ったドッグファイトが困難で、そのため頭脳戦、つまり背後から気づかれず敵機に近づき、遠くから射撃して撃墜するタイプでした。JG54の大半のパイロット、ヴァルター・「プンスキ伯爵」・クルピンスキーしかり、ヘルマン・グラーフの遼機で有名なアルフレッド・グリスラフスキーしかり、猪突猛進&ドックファイト型だったのです。彼らではなく、頭脳型のロスマンに教わったことが後の大エースの基盤となりました。ひよっこ時代を生き延びれたこと、そしてロスマンの近接背後攻撃とクルピンスキの近接射撃スタイルの合体版が、ハルトマンの攻撃パターンとなったのです。
ロスマンはパイロットの多くがそうであるようにかなり小柄でしたが、顔はハンサムでなかなかのプレイボーイだったそうです。93期を撃墜しつつも、1943年にオリョール近郊で不時着しソ連の捕虜となってしまいましたが、幸運にも後に生きて祖国帰れてたそうです。
2.士官と下士官
考えたら、ハルトマンは士官で任官なんですね。医者の息子だからそもそもエリート家庭出身である。ロスマンは下士官。坂井三郎が笹井醇一中尉を教育したのと同じこと。日独米にも下士官パイロットが居て当たり前でした。ハルトマン任官時のJG52司令官フォン・ボニン大佐(当時少佐)は、空戦時のシュバルム(4機編隊)のリーダーを、グルスラウスキー中尉に任せていましたが、空戦中の無線でグリスラウスキーがボニンに、向かって「俺のケツのキスしろ!」といっても怒りませんでした。
ルフトヴァッフェのエクスペルテンで下士官から出世したのは、224機のエーリッヒ・ルドルファーが軍曹から少佐まで、221機ハインツ・ベアが伍長から中佐!まで、212機のヘルマン・グラーフが軍曹から大佐!まで、208機のテオ・ワイゼンバーガーが曹長から少佐、192機のアントン・ハックルが陸軍歩兵から転じて空軍で伍長任官、少佐まで、という例が有ります。このように実力主義というか、撃墜機数が多くかつ部隊の頭として能力があれば、下士官から佐官にまで上り詰めた人も結構いるんですね。
3.観察−決定−攻撃−離脱
これぞハルトマンの352機という前人未踏の撃墜数を実現させた必殺攻撃パターンの極意である。基本的には敵に気づかれず接近し、、後ろや周りを観察し護衛戦闘機の襲撃を受けないと判断した場合のみ、攻撃し、そして敵機の最後を確認する前には離脱する。このサイクルを一回の出撃に際し何回か繰り返すことにより、一日の撃墜数が6機とか多数機になり得た訳です。
sかしこれは東部戦線だからこその戦闘方法ですね。「観察」時に、こちらが危ないと思ったら攻撃を辞めるというのは、いくらでも敵機がいるソ連戦線だからこその話であって、おなじドイツでも戦闘機が本土防空線で敵前回避をしたら、その分米英の爆撃機で女性や子供が殺され、工場や鉄道が爆撃されてしまうので、そうは行きません。終戦間際にガーランドからMe262ジェット戦闘機隊へ転属を打診されたのを断ったのも、このサイクルが完成の域に達しており、それは東部戦線でしか通用しないことを、すなわちそれ以上の撃墜機数が伸ばせないことをハルトマンは熟知していたのでしょう。
一方、海軍戦闘機隊であれば日米問わず、敵と向かい合うチャンスなど、全出撃の何十分の一のチャンスな訳で、体勢が不利だろうがなんだろうが、空戦をしない訳にはいきません。
4.グライダー・パイロット出身
ハルトマンも多くのルフトヴァッフェ・パイロット同様、グライダー操縦の経験が有ります。お母さんがスポーツマンでグライダーをいぇっていたので、ハルトマン兄弟にじかに教育を施したそうです。それゆえ、メッサーシュミットBf109では、エンジンをやられたりしても、滑空で味方陣地へ帰投し、胴体着陸したことがしばしばでした。
5.降伏とグラーフ
ハルトマンはガランドの誘いを断って、ガランドの天敵ゴードン・ゴロブに取り入り東部戦線のJG2にi戻ったが、これが結局ドイツ降伏後10年に渡る捕虜として抑留生活を送る遠因になりました。同様にヘルマン・グラーフ大佐も、本土防空戦から最後のJG52司令官として末期の東部戦線に任官したことが捕虜の道を歩む結果を招きました。しかも二人とも敗戦直前、ザイデマン将軍より、ダイアモンド鉄十字章、剣付鉄十字章の高位エースの二人は、国内へ戻る命令が出ていたのに、部隊とその家族を見捨てることができず、軍令を無視して留まったのです。この点、グラーフは素晴らしく人道的な指揮官でした。抑留後の転向については、先に帰国したアッシ・ハーンの国内にける言動がグラーフの評判を落としめたようですが、少なくとも降伏時点ではいかに人道人物だったのかが判ります。
抑留から10年、ハルトマンが卑劣なNKVDの思想改造にも耐えたのは、ひとえに彼のウィル・パワーの強靭さと、ウーシュへの愛があったからこそです。序文におけるダグラス・マッカーサー将軍の言が良くその事を活写しています。
6.戦後の西ドイツ空軍時代
ハルトマンは若干22歳で激墜機数と勲章ではルフトヴァッフェの頂点に立つと同時に、それ以降10年間ソ連の捕虜となり普通の社会人としての経験がまったく無いまま、ただただNKVDの洗脳への対抗だけで過ごしてきました。解放後西ドイツ空軍のに復帰するも、それは日本同様敗戦国の悲しさ、いかにプロとはいえ旧軍出身者は差別されるのですが、ハルトマンの強靭な意思はかえって妥協を許せないため、航空団司令官としては必ずしも成功したわけでは有りませんでした。長い間中佐の地位にとどめ置かれ、JG71の教え子にも出世では抜かれつつ大佐にはなるものの、結局将官にはなれないうちに退役してしまいました。
意外なのは、トリバー達のこの本が出た1970年になって初めて、旧軍のエクスペルテ達の業績、ハルトマンの352機撃墜の記録がまごうかたなき真実であり、世界最高記録であることが、世間一般に認知されたということです。戦争責任の追求の厳しさの故です。おなじ敗戦国であっても日本では坂井三郎の「大空のサムライ」によって、国内およびアメリカにも海軍戦闘機パイロットのことが喧伝されたのと対照的ですね。
エクスペルテのサイトのハルトマンのページ
http://www.elknet.pl/acestory/hartm/hartm1.htm(WW2エースストーリーズ)
http://www.luftwaffe.cz/hartmann.html
WIKIPEDIA
ハルトマンのお墓
YOU TUBE ハルトマンの勲章授与式とヒットラー
http://www.acesofww2.com/germany/aces/Hartmann.htm
2008.03.15